【考察】なぜ道場にあえて通うのか(一般編)
前回の記事では学生が武術を学ぶ場として道場が持つ利点を述べました。
今回は学生だけでなく全ての一般人が様々な趣味の中から道場通いを選択することで享受できる利得についてまとめたいと思います。
武道に触れるなら道場へ
万人向けでは無い武術と必修の武道
お気付きの方もいらっしゃると思いますが,前回の記事は学生という制限だけでなく武術を学びたい方という制限もありました。
武術は勿論面白いものですが,全ての方が学ぶべきというのは暴論です。
一方で武道については平成24年から義務教育に組み込まれるなど,その文化的価値が社会的に広く認められています。
文部科学省によれば,「武道に積極的に取り組むことを通して、武道の伝統的な考え方を理解し、相手を尊重して練習や試合ができるようにすることを重視する」とある通り,武道の戦う側面だけでなく精神の在り方も重要視されているようです。
この教育改革がグローバル化の流れを汲み西洋的な考え方を学ぶ機会の提供を同時に目指していたことを踏まえると,国としては西洋の考えのみを学ぶことが招き得る単なる西洋化,文化の迎合を避けたかったことが予想されます。
武道を通して日本の伝統的な考え方を学ぶことは,改革が進む時代の中でアイデンティティを確立する助けになると期待されたのです。
武道教育の実態
では義務教育で武道を実際に学んだ世代を見てみると,どうでしょうか?
筆者のいた学校では在学中に武道の授業が導入されましたが,導入前後で生徒の意識が変わったような事例はありませんでした。
勿論授業で武道に出会い,興味を持った生徒が入部することはありましたが,日本生産性本部の統計を見れば分かる通り武道の競技人口は横ばいのままです。
すると殆どの人は武道を中学の授業内,国が定めた体育の8項目の一つとして,長くとも約半年という短期間で学ぶことになります。
必要とされる習熟度は実用に耐える程度であるのに対し,この授業数では無理があるのは明らかです。
考え方の一系統を実用レベルまで学ぶのが半年で済むのであれば,今頃高校は学者で溢れているでしょう。
つまり現状,武道教育の必要性は認識されているにも関わらず,改訂前の人はもちろん改定後の人でさえ満足に学べていないのです。
道場が提供する文化学習の場
時間が不足しているのであれば,自分で作り出す必要があります。
道場が長期間通いやすい施設であることは前回の記事で述べた通りですので,文化の勉強を武道で行いたい人は伝統を継承しているような道場を探せばよいでしょう。
当然その道場が文化の勉強に適しているかどうか見極める必要はあります。
流派のルーツを大切にしているか,その武道の基本的な歴史を知っているかどうかなどをホームページや師範に直接会うことで確かめ,見極めることが大切です。(あくまで文化学習を目的とした場合の選択基準となります)
学校の部活と異なり,道場は基本学生から社会人まで幅広い人を受け入れていますから,興味のある方は通い易い道場を探してみてください。
以上では「武道で文化を学ぶべき→学校の武道教育では不十分→道場に通えば良い」という趣旨で話を進めてきましたが,前提となっている武道の有益性について十分に言及できていませんでしたので,次項から説明を始めます。
武道の有益性
武道を通して学ぶことの出来る文化には,身の周りにいる人に関係するものと,不在のものに関係するものに分けることが出来ます。
周りの人との関係
武道を稽古する際は,全ての人が初心者として修業を始め,周囲の人と支え合いながら終わりなき探求をすることになります。
道場で稽古する場合は師範や先生がいて,手ほどきを受けながら成長していくのです。
ここで注意すべきは,この探求の旅に明確なゴールは存在しないので修行の過程に他者と優劣をつけることは出来ず,よって先に修行を始めた人を超えるとみなす手立てが無いということです。
つまり,客観的な評価基準が存在しない武道では,永遠に先輩は先輩のまま,後輩は後輩のままということになり,固定された上下関係を如何にして捉えるか学ぶことになるのです。
この上下関係は入門時期もしかすると先輩は年下で,社会的地位も自分より下であるかもしれませんし,逆に後輩が年上で,自分より遥かに「偉い」人であることも多々あります。
心構えが不十分では,この固定化された関係に鬱憤を感じ,修行に集中出来なくなります。
ここで学ぶのがお互いへの尊重であり,それは近年欧米から輸入されている「個の尊重」と異なるものになります。
各個人が対等な立場で意見を言い合えるような団体はアイデアや革新性に優れますが,武道を基礎づける戦いの場,即ち団体として一丸になり行動することが要請されるような状況では脆弱です。
軍のようにいざという時,上の命令に疑問を挟まず実行に移す為には上下関係が必須になります。
そのような上下のはっきりした組織で平時にどう人間関係を円満に築くかの答えが,武道の伝統的尊重なのです。
先輩に対する接し方は筋道の記事でも一部触れました。
後輩に対しても同様に,相手が自分に意見し辛い立場にあることを配慮した上でどう接するべきかを考えます。
勿論これらを習得するのは難しく,失敗することもあるでしょう。
しかし同じ武道の稽古に励む先輩や後輩が,きっと同じ道場の仲間として支えてくれるはずです。
目に見えないものへの尊重
武道の作法には,神前に向けた礼などの相手に実際会うことが出来ないものも多く存在します。
宗教に明るい方にとってこの行為は自然に映ると思われますが,宗教が教育と分離して久しい日本ではピンと来ない方もいらっしゃるはずです。
神仏を尊ぶことが何故重要視されるのかと言いますと,神仏の教えが人間に方針を与えるからです。
武道においては度々創始者や生前の伝承者らが神格視されますが,先達に感謝しその教えを尊ぶという行為が宗教と似通っているのですから当然となります。
一説には神の定義を「存在すること」とするそうですが,この定義により神は全知全能となります。
確固たる信念を己の中に据え置き,それを尊重し行動するのが武道の在り方です。
特定の神や仏を信じられない人も,己の信念を堅牢にする行為そのものを礼儀作法から学ぶことが出来ると思います。
目に見えないものにも価値を認められるようになることで,他者の尊重もしやすくなるはずです。
尊重の欠落
現代では「ブラック企業」,「働き方改革」などの,会社にある悪しき風習を撤廃し健全な働き方を手に入れようという動きが盛んです。
残念なことに,この枠組みでは日本伝統の年功序列制度等も悪の根源扱いされています。
上に述べたように,年功序列といった上下関係の固定は特定環境下において優れた性能を発揮するはずでした。
しかし実際では上の者が下を顧みず健康被害が出る程働かせてしまったり,上司の意図をその都度読み取ることが出来ない人の為に不思議なマナーが生まれ悪影響を与えています。
この原因の一つとして考えられるのは,伝統的なシステムに必要な伝統的尊重の在り方を知らない人が増えてしまったことにあると思います。
本来,尊重の在り方は閉じた地域社会等のなかで道場と同じように先輩や後輩に囲まれながら習得することが出来ましたが,人の移動が増えたことで学ぶ機会が奪われ,上下関係を固定するシステムだけが残ってしまったのです。
無闇に昔は良かったというのは間違いですが,その逆もまた然りで伝統を一括で否定しては価値あるものまで切り捨ててしまいます。
過去を否定したところで自分の生まれは変えられません。
自分の住む社会を築いた先人の文化を知ることは,自分が何者であるのか確かめるのに重要です。
自分の視点が定まれば,より簡単に他の「尊重」の利点や欠点を見極めることが出来るようになります。
様々な尊重の在り方を学べば,状況が変わっても本当に大切なことを見失わずに済むようになるのではないでしょうか。
最後に
道場で武道を稽古することが,日本の伝統的な尊重の在り方即ち他者との関わり方を知る良い機会になることを扱いました。
他にも常設の道場であれば,ご近所付き合いの方法など道場内外で良い関係を保つ方法も学ぶことが出来ます。
また本記事では触れられなかった武術を純粋に文化の一つとして学ぶことにも歴史理解が深まるといった価値もあります。
武術以外の価値は時代が変わったからこそ道場が提供できるようになったと言えるでしょう。
是非,興味の湧いた方はお近くの道場を訪ねてみてください!
新しい価値観との出会いが皆さんの人生を豊かにしてくれることを願っています。